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紫イペへの理解

挨拶1つでも面倒臭いのに、すぐ近くに座っている無能な上司が、いつも納得できないつまらない指示を出す上に、蓄膿症の鼻を気持ち悪くグスグスさせていた日には、そいつの顔が見たくなくなり、高ずれば出社拒否症にもなりかねないだろう。 これほど左様に職場の隣人はうっとうしいのである。
ところがフリーになって、1人きりの小さな仕事場でも持てばすぐに気がつく。 嫌な奴でも毎日顔を見る隣人の効用はなかなか高いのだ、と。
フリーの仕事場の隣人は、あえていえば電話。 仕事の進行具合によっては、電話がしばしばかかってくる日もあるが、そうでなければ仕事場はひっそり閑としている。
場合によっては朝から夕方まで、誰とも口をきかないこともある。 その間に胸の中に、言葉にして誰かに伝えれば昇華されてすっきりするはずの思いが、少しずつ嵩を増してくる。
昔よく「団地の主婦の孤独」が問題にされ、一日中壁をにらんでいることは精神を損なう、などといわれたが、フリーだってそれに近いことにもなる。 何しろ動物園のゴリラさえ、連れ合いに死なれ1人ボッチになると、ノイローゼになるそうだ。
人間様の方がもっと孤独感に弱くても仕方あるまい。 人恋しさが募って、夕方になるとしばしば誰かを飲みに誘い、仕事が遅れがちになる人も少なくない。
人とコミュニケートしたい(話したい、話を聞きたい、顔を見たいなど)気持ちが心身に蓄積されて、たまに人と会うとわっーと噴出して、相手を牌易とさせる人も少なくない。 編集者との打ち合わせのときなど、相手が一言しかいわないのに、こっちはその十倍も話し続け、会話が成立しないようなときもある。
みな、ふだんの人間関係欠乏症の成せることである。 毎日顔を合わせる人間関係がないということは、とても人を不安定にさせる。

会社なら仲間や上司と言い争いをし、感情がもつれたあげく、「こんな奴とは二度と口をきくものか」と思っても、口をきかずにい続けることはまずできない。 毎日、顔を突き合わせるのだし、仕事も絡んでくるのだから、自然とまた口をきくようになり、挨拶も交わし、思わず笑いがあり、(けっこう、いいところもあるじゃないか)などという気持ちが再び生まれてくる。
サラリーマンたちは、会社である程度わがままを出して人間関係に葛藤が生じても、後で自然に修復の機会があると知っている。 だから比較的自然な自分でいられる。
それこそが共同体の一般的な人間関係というものだ(嫌な奴と二度と会わないですめばありがたいと思うサラリーマンも多いだろうが、実際にそうなってみれば、違う心境を味わうのに驚くだろう)。 ところがフリーの人間関係は共同体を構成しておらず、時間空間を狭く区切られた、点の人間関係である。
たとえば物書きの主たる人間関係は編集者や取材相手であるが、編集者と酒でも飲んでいるときに喧嘩をすれば、修復するのは非常に難しい。 何しろその後顔を会わせなくてもいいのだし、かといってわざわざ席を設けて手打ちをするのは大げさだ。
喧嘩しっぱなしの相手を人脈の中に持っていると、非常に落ち着かない。 そんな人が3人もいたら、かなり精神的に不安定になるだろう。
そこで点の人間関係しか持っていないと、その関係の中で自然の自分はなかなか出さないようになる。 おそらく一般のサラリーマンはフリーに対して逆のイメージを持っているだろう。
自分たちこそ人間関係で我慢を強いられており、フリーは自由気ままだ、と。 フリーが日頃から溜めこんでいる。
他人とコミュニケーションを持ちたいという欲求を、酒量が多くなったりして自制の糸が切れたときに、わっと発散させる姿を見るからだろう。 そんなときはサラリーマンより歯止めがきかないのであろう。

もっとも、たえずこういう姿を見せているフリーがいないわけでもないが。 よく「事業に投資するのではなく、その人に投資する」とか、「商品を売るのではなく自分を売る」などという言い方をする。
それほどに仕事(=事業)は行う人と分かちがたい。 なにしろ商品や企画を売り込むには、相手に何度も会い、その商品や企画のメリットを説き聞かせ、しかも話の内容を信じてもらわないとならない。
何度も会ってもらうためにも、話に耳を傾けてもらうためにも、その話を信じてもらうためにも、商品や企画の善し悪し以前に、その人への信頼感が前提となる。 つまり商品より先に、あるいは商品と同時に、営業マン自身を売り込まないとならないのだ。
逆にいえば、営業マンが自分を売り込むことに成功すれば、商品や企画は売れたのも同然である。 一度信頼されればもう値段や品質のことはうるさく吟味せず、何から何まで彼から買うということになる。
一般には「世の中には図々しい奴が多い」という印象を持っている人が多いだろう。 実はサラリーマンにしろ、自由業にしろ、自分を売り込むことが苦手で、あまり潔くとしない人が多い。
1章で紹介したY氏もそういう人物だったが、私はそういう人を身近にたくさん見ている。 友人のK氏に。

「これから本格的に小説を書くつもりだけど、誰か編集者を紹介してくれないだろうか」と頼まれたのは、私がフリーになって4、5年経ったころだった。 彼は私より3歳年少だから当時38、9歳だった。
K氏は、自分で仕事をしている妻と、幼い2人の子供をもち、ある会社に勤めるかたわら小説を書いては、あちこちの新人賞に応募していたようだった。 40歳を目の前にして、もうそんな悠長なことはやっていられないと、直接、小説の編集者に売り込みたくなったのだろう。
あるいは友人の私がぽつりぽつりと小説を刊行し始めたのに刺激を受けたのかもしれない。 とにかく勤めを辞めて、背水の陣で小説に取り組むという。
ところで、頼まれた私とて、当時はまだ小説は数冊しか出版しておらず、客観的に見れば編集者に他人さまを紹介できるほどの立場ではなかった。 それでも私は私の乏しい人脈を総浚いして彼に紹介することにした。
自分の小説を出版してもらった編集者2、3人はもちろん、仕事の繋がりはまったくなかったがある会合でしばしば会う編集者、私が編集者だったときにしか付き合いがなかった編集者、さらには電話でしか話したことのない編集者までも紹介した。 彼らはみな旺盛に小説を出版している大手出版社の編集者たちである。
私と縁の薄いそんな人たちまでを総浚いしたのは、今から振り返るといささか常軌を逸しているが、当時まだ私に「ビギナーズーハイ」の延長の気宇壮大な気分があったせいだろう。 とにかくまだ駆け出しの私などを頼ってくれたK玉氏の期待に、できるだけ応えたかったのだ。
その後、彼は奥さんの仕事を手伝いながら、それらの編集者とコンタクトを取って、少しずつ小説を書き進めていたようだった。 私の依頼などほとんどバックアップの効果を持たなかったから、彼は大変な思いをしたことだろう。
苦労している様子は、たまに漏れ伝えられる程度で詳細は霧の中、私は自分のことで忙しく、彼のことをあまり意識しなかった。 2年経ち3年経った頃、彼は私が紹介したのではない小さな出版社から小説を出した。
その出版記念会に参加したとき、と思ったが、深く聞いては悪いような気がして尋ねはしなかった。 ところがまた2、3年経った頃、私か紹介した出版社の新聞広告で、彼の文庫の書下ろしの紹介を見て驚いた。


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